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  最上地方と最上川

 最上川は、日本三大急流の一つ、長さ日本7位、同一県内を流下する河川としては国内最長です。米沢市の西吾妻山「火焔の滝」を源流とし、途中で428の支川を合流しながら酒田で日本海に至るまでの229kmを4日前後かけて流れていくといわれています。
 最上川は最上地方の手前で日本海へ左折し、最上地方の区間を平均流量毎秒437トンで流下します。浅瀬で変化の激しい急流箇所もあり、昔は船運の難所として知られていました。
 そんな最上地方の最上川にまつわる話しをご紹介します。


    

▲戸沢村古口付近 夏の最上川と冬の最上川風景




※タイトルクリックで記事にジャンプします。
  暴れ川だった最上川
  土砂崩れの多い最上川河岸
  文化も運んだ最上川
  松尾芭蕉が恐怖の舟下り
  昭和天皇御製の歌「最上川」
  古人も歌に詠んだ最上川
  山形の宝「最上川文化的資産50選」
  「最上川舟唄」は恋歌?
  付録 こんなマッカ大根が!
  最上川の名前の由来




暴れ川だった最上川





 最上地方の河川は全般に急勾配で川幅が狭いため、雨が降るとすぐに水位が上がって急流となり氾濫し、過去幾多の水害を引き起こしてきました。
 最上川もたびたび氾濫して地域住民の生命や財産を奪ってきましたが、昭和33年(1963年)の改修工事着手から治水が進められて、現在のように安心できる河川になりました。

雨で増水した最上川「八向楯」
▲増水の最上川。右の山は名跡「八向楯」


 右上の写真は新庄市本合海の増水した最上川です。ここは左岸を走る国道47号が水没して通行止めとなる場所でしたが、高架橋に改築されその心配もなくなりました。高架橋の下には今も旧道が残り、名跡「八向楯」の見学スポットへとつながります。



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土砂崩れの多い最上川河岸





道の駅「高麗館」
▲最上川を眼下に「道の駅とざわ/高麗館」

 最上川周辺は地盤が砂岩やシルト質(細かい粘土)で軟らかいところも多く、雨などで地盤がゆるむと地すべりを発生して道路・河川・住宅などに多くの被害を与えてきました。
 左写真は、最上川まで土砂が押し寄せた大規模な地すべり発生地を整備して「道の駅とざわ」(戸沢村)として生まれ変わらせた場所です。
今では、眼下にゆったりと流れゆく最上川を展望できる、多くの観光客が立ち寄る場所になっています。



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文化も運んだ最上川





 日本海を往来する北前船の停泊港であった酒田港へと流れ着く最上川は、北前船の荷を内陸の最上・村山・置賜へと運ぶ重要な船運物流ルートでもありました。
 内陸の米や紅花などが酒田港から京都や大阪に運ばれ、帰りには陶磁器などの物品に加えて文化も運んできたようです。
 語尾に「じゅー」をつける新庄弁は、京都言葉の「重々」を受け継いだものと聞いたことがあります。
 現在は荷船に代わり、舟下り観光船が一年を通じて往来し、多くの観光客で賑わっています。

 最上川舟下り
▲一年中最上川の四季が楽しめる舟下り



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松尾芭蕉が恐怖の舟下り





 戸沢藩の船着き場であった新庄市本合海は、内陸と庄内の重要な中継点として賑わいました。
奥の細道紀行では1690年6月1日に松尾芭蕉が曾良と共にとう留先の大石田を出て、この本合海から庄内となる清川まで七里(約28km)を船で下り、その後、陸路で出羽三山を目指したとされています。
 松尾芭蕉と曾良は、雨で増水した最上川を恐怖の思いで下ったといわれ、直前のとう留先の大石田で「五月雨を集めて涼し最上川」と詠んだ歌を、後に「五月雨を集めて早し最上川」に推こう(練り直し)したといわれます。
 波打つ濁流に押し流されるように冷や汗で下った最上川が名句を生んだのでしょうか。


 また、大石田から本合海に向かう途中で芭蕉が立ち寄った新庄市の旧街道「柳の清水」跡には、「水の奥 氷室尋る 柳哉」の句碑が建てられています。→新庄市ホームページ 芭蕉の句碑と柳の清水跡(市指定史跡) ※別ウインドウで開きます


本合海の芭蕉と曾良像 芭蕉の句碑
▲新庄市本合海の船着き場跡小公園の芭蕉と曾良の像や句碑が当時を偲ばせてくれます



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昭和天皇御製の歌「最上川」





『 広き野を ながれゆけども 最上川 うみに入るまで にごらざりけり 』


 昭和天皇御製の山形県民の歌「最上川」です。昭和天皇が大正14年に山形県酒田市の日和山を訪れた、翌15年の歌会始で最上川のことを詠まれた歌に曲がつけられて、昭和57年3月31日に山形県民の歌に制定されました。→山形県ホームページ「山形県民の歌」 歌を聴く 楽譜を見る ※別ウインドウで開きます 



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古人も歌に詠んだ最上川





 松尾芭蕉の句、昭和天皇の歌を紹介しましたが、最上川は和歌や俳句にも多く詠まれてきました。
最も古いのは、日本最初の歌集「古今和歌集」延喜5年(905年)に記述される『もがみ河 のぼればくだる いなふねの いなにはあらず この月ばかり (詠み人知らず)』といわれます。
告白の返事を最上川を上り下りする稲を運搬する稲舟に見立て、「あなたの愛の告白を受け入れます、でも今月は都合がつかずお逢いできません。」という意味らしいです。上れば下る稲舟のように心は通じています、でも今月は稲の荷物がなく舟を出せませんという隠し?言葉はなんともロマンチックです。この返事をもらった相手も理解できたのでしょうからスゴイです。


 百人一首などに見られるように、自分の心を情景を借りて短い言葉で表す洗練された言葉遊び?に、あらためて日本文化、文学のすばらしさ、高尚さ(レベルの高さ)に感動します。
 『最上川 いなとこたへて いな舟の しばしばかりは 心をも見ん (後鳥羽院下野)』
稲舟を見て「稲(いな)」というように、あなたにも「否(いいえ)」と答えて、しばらく気持を試してみようかしら。という意味らしいです。


 隠し?ことばの意味が分かると、歌が分かったような気になるから不思議です。(※上記歌の解釈には筆者の個人的解釈も含んでいますので、あしからず・・・。)


 他にもいくつかの歌を紹介します。詠み人の心情が見えてくるでしょうか。
  ・もがみ川 深きにもあへず いな舟の 心かるくも 返るなるかな(藤原定方)
  ・もがみ河 人のこころの いな舟も しばしばかりと きかば頼まん(藤原有家)
  ・いな舟も のぼりかねたる 最上河 しはしばかりと いつを待けん(藤原嗣房)
  ・つよくひく 綱手と見せよ 最上川 そのいな舟の いかりをさめて(西行)
  ・もがみ川 あふせぞしらぬ いな船の さすがいなとは いひもはなたで(本居宣長)
  ・最上川 岸の山群 むきむきに 雲篭るなかを 濁り流るる(若山牧水)
  ・最上川 いまだ濁りて ながれたり 本合海に 舟帆をあげつ(齋藤茂吉)
  ・最上川 逆白波の たつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも(齋藤茂吉)
  ・新米の 坂田は早し もがみ河(与謝蕪村)※坂田はたぶん酒田のこと
  ・暑き日を 海にいれたり 最上川(松尾芭蕉)
  ・ずんずんと 夏を流すや 最上川(正岡子規)


 多くに歌に「いな舟」と詠まれるほど、舟運の往来が盛んだったのでしょう。
新庄市には「稲舟(いなふね)」という地名も残ります。



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山形の宝「最上川の文化的資産50選」




 山形県では、山形県の母なる川「最上川」の貴重な地域資産の中から、特に次世代に伝えたいものに
ついて県民投票を行い、「最上川の文化的資産50選」として選定しました。

 最上川は、置賜地域・米沢市の西吾妻山「火焔の滝」を源流とし、酒田で日本海に注ぐまで村山地域
〜最上地域〜庄内地域と県内すべての地域を通過することから、昔の舟運交易の時代から各地域とも最
上川と密接に関わってきました。

 50選は、最上川の雄大な眺望や舟運時代から残る町並みなど、景観・史跡・施設・文化など幅広く選
定されています。山形県では、この50選を地域づくりや観光交流拡大に活かすとともに、県民にも最上
川の素晴らしさを再認識してもらい、地域に対する愛着や誇りを育む取組みを進めています。


  

 出典:山形県ホームページ 山形の宝「最上川の文化的資産50選」を選定しました
              山形の宝「最上川の文化的資産50選」のパンフレット ※別ウインドウで開きます





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「最上川舟唄」は恋歌?  2015.03




 山形県の民謡「最上川舟唄」は、昭和11年(1936年)NHK仙台放送局の「最上川を下る」という番組企画で舟唄の紹介を頼まれた渡辺国俊氏(民謡研究家)が、後藤岩太郎氏(地元で評判の歌い手)とともに最上川の舟唄と呼べるものがないか調査したが見つからず、当時の「酒田追分」や「新内くずし」を元に「川の難所越えの船頭のかけ声」を合わせて作ったといわれています。
 ※参考:大江町ホームページ 最上川舟運文化「最上川舟唄」


 また、民謡は古来より歌い継がれた歌という概念からすれば、「最上川舟唄」は例外的な創作民謡ということになります。しかしながら、1950年代、作曲家の清水脩の「五つの日本民謡」という曲集に編まれるなどして、日本を代表する曲とまでいわれるようになりました。
 「清水脩の最上川舟唄(男声合唱・混声合唱)は編曲というより完成度の高い合唱作品として、国内はもとより、来日する海外の合唱団にも日本を代表する民謡レパートリーとして演奏されている。」
 ※引用:ウィキペディア 最上川舟唄


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 最上川舟唄は方言で綴られ、その内容は愛しい人を残して航海に出る船頭の恋歌に聞こえます。
発祥の地は米沢と酒田を結ぶ中継港として栄えた左沢(あてらざわ)。渡辺、後藤の両氏が在住する左
沢を出発する船頭をモデルにその胸中を織り込んだのか?粋な新内(花街)風の物語に仕立てたのか?

 真の意味は作者のみぞ知るですが、歌詞の方言や地形名称が分かれば、当時の川を下る舟の様子を思
い浮かべて頂けるのではと、勝手な情景描写を綴ってみました。勝手な妄想ですのであしからず・・・。


[正調 最上川舟唄] ※歌詞引用:大江町ホームページ「正調最上川舟唄全国大会」


  (ヨーエ サノ マッガショ エンヤ コラマーガセ
   エエヤ エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエ サノ マッガショ エンヤコラマーガセ)


 酒田(さがだ)さ行(え)ぐさげ 達者(まめ)でろちゃ (ヨイト コラサノセー)
 流行風邪(はやりかぜ)などひかねよに


  (エエヤ エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエ サノ マッガショ エンヤコラマーガセ)


 股大根(まっかんだいご)の塩汁煮(しょっしるに) 塩(しんよ)しょぱくてくらわんにゃえちゃ


  (エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエ サノ マッガショ エンヤコラマーガセー)


 碁点(ごてん) 隼(はやぶさ) やれ三ヶの瀬(みがのせ)も (ヨイト コラサノセー)
 達者(まめ)でくだったど頼むぞえ


  (エエヤ エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエ サノ マッガショ エンヤコラマーガセ)


 あの女(へな)居(い)んねげりゃ 航海(こうがい)乗(ぬり)もすねがったちゃ


  (エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエ サノ マッガショ エンヤコラマーガセー)


 山背風(やませかぜ)だよ あきらめしゃんせ  (ヨイト コラサノセー)
 おれをうらむな風うらめ


  (エエヤ エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエ サノ マッガショ エンヤコラマーガセ)


 あの女(へな)ためだ 何(な)んぼとっても足(た)らんこたんだ


  (エエヤ エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエ サノ マッガショ エンヤコラマーガセ)





<最上川船頭恋唄>(勝手妄想のショートショート)


 左沢の船着き場から一艘の小鵜飼舟のともづながとかれた。50俵(3t)の米を酒田まで運ぶのだ。
「ヨイサ任せたよ、エンヤコラ任せておけ。」船頭たちのかけ声とともにジワリと舟が動き出す。船首
で竿と船尾で舵を操るのは熟練の船頭、そして今日が初乗船の若者の乗組員は3人だ。


 若者は恋い焦がれた人と結婚したばかりだ。岸で見送る人々に混じって若者の新妻も手を振る。岸を離れかけた舟から若者が呼びかける「酒田に行ってくるから元気で待っていろよ、流行の風などひかないようにな」。声を引き離すように、舟は最上川の流れに乗り酒田へと下っていく。



 最上川の三難所を乗り切るために船頭たちの腹ごしらえだ。舟の上の食事は市場に出荷できなかった二股大根の塩汁。塩が効きすぎたのか、新妻と離れるつらい涙のせいか、「しょっぱくて食べられたもんじゃないぜ。」若者は涙を拭きながら汁をすすっている。舟は、ゆっくりと最上川を下っている。


 流れが速くなってきた。碁点・隼・三ヶ瀬を目前に船頭たちに気合が入る。数ある難所の中でも多くの舟が難破して恐れられる最上川の三難所だ。船首の船頭が竿を突く、船尾の船頭は合わせるように舵を回す。「ヨイトコラサノセ」、阿吽の呼吸で岩や浅瀬を乗り切っていく。
 穏やかな流れが戻り、一息付いた船頭たちは誰に言うともなく「三難所も無事に下ったと伝えてくれよ」と船底に座り込んだ。


 若者は難所を木の葉のように揺れる舟にしがみつき、青ざめた顔をしている。「あの女と結婚しなければ、生活のためとはいえ、こんな危険な船乗りになんかならなかったのに。今すぐ帰りたい…。」若者の後悔の念と早くも湧いた里心を、最上川の深い流れが舟とともに揺らしていた。



 「帆を掛けろ」舵とりの船頭が若者に指示する。急に視界が開けたと思ったら、若者の心を断ち切るように強い山瀬に膨らんだ帆が、舟をグングンと下流に運ぶ。「若い衆、いつまでもクヨクヨしていないで頑張っていくぞ。お前と女房を引き離すのは山瀬の風だ。俺を恨むなよ、恨むなら風を恨め。ヨーイサノマガッショ、エンヤコラマーガセー」風をはらむ帆に船頭たちも気合を入れ直す。酒田へはもう少しという所に舟は差しかかっている。



 うつろに水面を見つめる若者の顔にピシャンと最上川の水が跳ねた。ふと若者は顔を上げ「ヨーシ、かわいい女房のためだ、俺もがんばるぞ。金はいくらあっても足りないもんだ、一生懸命稼ぐぞ。」最上川の水が若者の未練を洗い流したようだ。




 夕陽を追いかけるように舟は最上川を酒田へと下る。その後も若者が船頭の道を歩んだかは分からないが、風を受けた帆に群がってくるカモメは、若者の船頭への第一歩を祝っているようであった。





<資料サイト> 別ウインドウで開きます
 山形河川国道事務所「最上川電子大辞典
  小鵜飼船 (写真あり)
  三難所 (写真あり)
 ウィキペディア
  清川だし




付録 こんなマッカ大根が!  2015.11




 歌詞に出てくる「まっかだいこん」は先が二股に分かれた大根です。「マッカ」とは当地の昔言葉?で二つに分かれていること。木の枝がY字に分かれているところも「木のマッカ」と言いました。


 「マッカ大根」は大黒様の日のお供えに欠かせないものでした。日本昔話にも出てきますが、大好きな餅をたらふくごちそうになった大黒様。帰り道で腹痛を起こし大根を背負った娘に「餅には大根が一番、一本くれ」と頼む。娘は「数が減ると働き先の家を追い出される」と言うが、マッカ大根なら一股欠いても数は減らないと大黒様に上げ、大黒様は元気になった。
 それから、豊年満作を願う大黒様の日に「マッカ大根」も供えるようになったといわれています。昔は当地周辺でも大黒様の日の風習がありましたが、今では庄内地方に残るだけのようです。


 ところで、筆者の畑で抜いたら驚いたマッカ大根が採れました。
大根は堅いものにあたると別の根が下に伸びようとしてマッカになるのだと思いますが、こんなに絡み合うとは・・・。


 クリックで拡大 クリックで拡大 クリックで拡大 クリックで拡大 クリックで拡大 2015/11/03




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最上川の名前の由来  2015.03




 なぜ最上川と呼ばれるようになったのか?ここまで書いてきて、ふとそんな思いが巡り、最上川の名前の由来を調べてみました。


 100万年も前から流れいたという最上川。昔から農業用水や舟運の交通路として利用され、今でも暮らしに必要な水の大部分は最上川から取っています。このように私たちの暮らしと結びつきが強い最上川は、山形県の「母なる川」と呼ばれています。
 最上川の長さは229キロメートルで全国区7位、川幅は河口で約380メートル、流域面積は7,040平方キロメートルで山形県の約76パーセントの土地の水が最上川に集まります。(右図の水色の部分が最上川の流域です)
 ※上文引用:山形河川国道事務所 わたしたちの最上川「最上川ってどんな川?


最上川の流域面積は山形県面積の約76パーセント

 さて、最上川の名前の由来については、いくつかの説があり、日本最古の辞書「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には「毛賀美(もかみ)」と記されるそうで、「珍しい岩石の多いところ」という意味らしいです。
 また、アイヌ語の「もがみ(mo-kamuy)=静かなる神」からきているという説もあるそうです。
 アイヌ語が語源にはもう一つあり、庄内平野から内陸部に至ると開けた広い盆地があり(新庄盆地でしょうか)、この一帯をモモ(崖)カミ(上)の地といい、ここから流れてくる川をモモカミと言ったという説もあります。
 ※上文引用:山形河川国道事務所 最上川電子大事典「最上川の起源


※「珍しい岩石の多いところ」というのは、露出した岩などがある舟運の難所と呼ばれる箇所がいくつかあった川の風景を考えると、納得ができそうです・・・。モモカミは「最上地方四方山ばなし」「最上市町村の地名の由来の最上町の由来に通じ、これも有りかなと思ってしまう・・・。



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